会社に戻ると、伊澤支店長は外出していた、 そのまま直帰するらしい。社員の所在を記入するホワイトボードを見ると、伊澤支店長の欄には訪問先の企業名が書いてあったが、本当に訪問しているかどうか。そのまま早退しているとおれは見た。
報告は仕方なく明日にすることにした。
ネクタイを叩きつけるように脱ぎ捨てる と、やっと人心地がついた。
「係長、こんなときで難なんですが …」
安藤が昨日のような沈んだ表情でおれの横に立った。また手には封筒を持っている。まさかまたあの話か…
「話あるんなら、下のカフェ行こうぜ」
おれは席を立った。他の社員に聞かれないように、ということもあるが、何より自分がアイスコーヒーを欲していた。
我が社の事務所が入っている雑居ビルの一階が、リーズナブルなカフェになっている。そのおかげで外に行かなくてもブレイクすることができる のが、この季節はありがたい。
「あの、退職願、書き直してきました」
注文して店員さんが去ると、待ちかねたように安藤が封筒をおれに突き出した。
「めちゃ早いな…」
退職願と書かれた封筒から紙を取り出す。確かに書き方は正式な書類になっていた。このご時勢、退職願の書き方なんぞネット ですぐに調べられるとはいえ、今朝こんな大問題を引き起こしておいて、今これを出してくるとは…
「あの、これでいいですか?」
申し訳なさげにおれを上目遣いで見つめる安藤。童顔な上に少し目が潤んでいて、あっちの趣味がある者ならドキッとしている場面かもしれない。
しかし、場合が場合だ。おれはため息をつくしかできなかった。
「よっぽど会社働きが嫌なんだなぁ、安藤は」
「はい…」
「まぁ、今朝の支店長のやり取りとか、今日の黒岩板金のことを考えれば、気持ちが分からんでもないけどさ」
「え、係長でも分かるんですか?」
「そりゃあね。辞めたいと思ったことは何度もあるよ」
おれは運ばれてきたコーヒーをすすりながら、自分の過去を思い出す。新人の頃は取引先にガキ扱いされ、まともに相手もされなかった。数年経って仕事に慣れてからでも、傷つくことは絶えない。小さなミス一回で、何年も取引していた客から怒鳴り散らされた挙句、縁が切れたこともある。
「お前がノマドワーカーに憧れるのもよく分かるよ。こんな仕事してたら、所詮自分は社畜だって思えちまうよな」
「僕の同期が…ノマドワーカーなんです」
突然、安藤が身の上を話し始めた。彼が自分のことを話すのは、そういえば初めてかもしれない。
「女の子なんですけど、パソコン片手に日本中好きなところに飛び回りながら仕事してて、そういう生き方にすごい憧れてたんです」
「仕事って?」
「ブログを書いてます。あとライターとして、色んな企業からの依頼もあるようですし、今は本の出版もして、働かなくてもかなり印税収入があるとか」
「どんな本を書いてるんだ?」
「何だか、20代としての生き方を考えよう、みたいなことを訴えてました」
ハッキリと話さないのは、つまるところあまり深くは知らないのだろう。まだ表面的なノマドの働き方しか見えていないことの 証拠でもあった。
「おれはさ、数年前だけどネットワークビジネスの勧誘を受けたことがあるんだよ」
おれも自分の身の上話を始めた。安藤も意外だったように、おれを見た。
「係長がですか?」
「今はMLMっつーのかな。よく分からないから、おれは肯定も否定もしないんだけどさ。あるとき何年も付き合いのある友達にカフェに呼び出されてさ、さんざん突っ込みどころ満載な説明を聞かされた後に、『一緒に夢をかなえて自由を掴もう!』とか言われて。その言葉が妙に気持ち悪かったんだよなぁ」
「気持ち悪い、ですか?」
「夢だとか自由だとかって言葉がね。お前の言う夢って何さ?自由って何さ?と思って。ネットワークビジネスで稼いで、不労収入を得ている人はいるんだろうけど、それがおれの夢だったり自由だったりするのか?収入があって、旅行でもなんでも好きにできるのが夢か?って自分に聞くと、答えはNOなんだよ。そんな生き方でいいと思えるやつらって、結局自分がよければそれでいいって考え方なんじゃないかな。おれは少なくとも、何もしないで毎日過ごすのは、生きてる気がしなくてさ。生きてる以上は、誰か他の人だったり、社会の役に立ちながら生きていたい、って思ったよ」
おれは言いながら、昨日の夜の由美の言葉を思い出していた。視野を広げるってのは、こういうことなのか。
「安藤、あそこに這い回ってるパイプあるよな?」
おれは天井を走るパイプにあごを向ける。
「ありますね。溶接管かな」
「あれ、うちの会社が納品したやつだ」
「そうなんですか?」
安藤が驚きの声を上げた。
「このビルは12、3年前に建ったらしいけど、うちの会社が納品したパイプがあちこちに使われてんだって。そのときはまだ大阪の本店だけだったんだけど、すでに東京進出は決まっててさ。事務所を探すときに本社の部長がこのビルを下見して、うちの製品が使われてるのを知って、東京支店をここに出そうって決めたんだってさ」
「うちのパイプがどこかに使われてるの、初めてみましたよ…」
安藤は、目を丸くしてパイプの群れを眺めている。
「このパイプ見たときにさ、何となく自分の仕事が誇らしく思えたんだ。おれらの仕事は、日本の経済を支える大事な建物の、それを支える一部になっているって。社会とか、他の人の役に立ってるんだなって」
「…」
安藤は黙ってうつむいた。
「安藤の憧れるノマドの魅力も分かるけどさ。でも、数字ばっかり追いかけてると見えないけど、視野を広げてみると、社畜も悪くないもんだぞ」
思わず口を出た言葉が、昨日の由美の台詞と被っていることに気付き、おれは苦笑いする。
「ま、退職願は預かっておくけど、もう少し考えてみてもいいんじゃないか?どちらにしろ受理するのは、このトラブルが解決した後にな」
「…はい」
安藤はうつむいたままうなずく。おれの言葉がどれだけ響いているかは分からない。けど、由美の言っていた「人を見る」というのは、こういうことかもしれない。
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