そして翌日、出勤した直後に勃発したのは、冒頭の「新規得意先・500万の注文ドタキャン事件」という訳だ。
おれは淹れたてのコーヒーを置き、放心状態の安藤に近づいた。
「安藤、テンション下げるのは後だ。まずは状況確認しろ」
安藤は力なくうなづく と、携帯を取り出してコールした。
「お世話になっております、北大阪パイプの安藤と申しますが…」
俺は安藤の隣に座って、彼が電話する様子を見つめる。隣にいたところで電話でのやり取りではおれが何をできる訳でもないが、安藤の様子でどんな話をしているかを察することはできる。
担当者と話し始めた安藤は、突然狼狽し始めた。かすかに受話器から怒鳴り声が漏れてくるのが聞こえる。内容までは分からなかったが、確かに事務の女の子が言う通り、激しい剣幕のようだ。
「はい、確かに仰ることは分かるのですが、こちらでも確認をさせて頂いておりますので…、あ、いえ、御社だけが悪いのではないのですが…」
どうやら相手は相当感情的になっている。このまま電話で話しても拉致が空かない と判断し、おれはメモで「今日訪問しろ」と指示を出した。
安藤がその旨を相手に伝えると、何とか通話を終えることができたようだ。深いため息とともに携帯を机に置いた。
「えらい剣幕みたいだな」
「こんなこと始めてです…」
安藤はガクッとうつむく。おれも客先から怒鳴られたことは何度かあるが、500万を間に挟んでの攻防は経験がない。
「それで、何を怒ってるんだ?」
「発注書には溶接管って書いてあるんですが、値段がやけに高くて、気前のいいお客さんだな~と思っていたんですけど、さっきの相手の話だと、全部シームレスの注文のはずだって」
ステンレスパイプといっても数種類ある。一般的なパイプは溶接管と言い、ステンレスの板を丸めて筒状にし、継ぎ目を溶接して作られる。それに対してシームレス管というのは、文字通り溶接した部分がないパイプで、溶接管よりも強度がある分、値段が高い。溶接管の1.3倍~1.5倍程度の値段なので、業者の人間 ならば値段を見れば、その注文が溶接管かシームレス管かは分かる。
「注文書は?」
安藤から受け取った、客先からの注文書を見ると、確かに溶接管が数十本、様々な長さや太さのものが記載されている。一応こちらの手落ちではない。しかし確かに値段は溶接管のそれではなく、シームレス管で妥当と言える値段だった。
「この値段については、先方と何か話したのか?向こうも素人じゃないんだから、相場くらい分かるはずだろ?」
「それは…」
「話してないのか?」
「このままでいいんだろうと思って…」
どうやら安藤は、利益に目がくらんで確認を怠ったようだ。
通常、今まで取引のなかった新しい顧客が注文してくるときは、こんなに大口の注文ではない。試しに使ってみるかという程度の、数千円ほどの小額注文が来ることが普通だ。全く実績も信頼もない相手に、通常より高い相場で大量発注すること自体が異例だ。
さらに悪いとに、注文されたパイプは折り曲げや切断などの加工が全てのパイプに加えられており、発注がキャンセルされても在庫に戻すことができない。つまり、全てゴミになってしまうのだ。500万円分のパイプが全て、である。
本来は綿密な確認が欠かせない注文のはずなのだが…この会社の未来を見ていない安藤にとっては、大したことではないと映ってしまったらしい。
トラブルになる前におれも安藤とともに確認しておけば良かった、と後悔しても今さら遅い。
「係長、支店長がお呼びですけど…」
事務の女の子が、おずおずとおれに報告する。
「早速来なすったかぁ。安藤、行くぞ」
座り込んで地蔵のようになっている安藤を立たせ、おれたちは支店長室へ向かった。
「やってくれたな向田。もうあきれてものが言えんよ」
部屋に入るなり、伊澤支店長は怒りの矛先をすぐにおれに向けた。
「何で新規の案件なのにお前はチェックを怠ったんだ。ええ!?こんな面倒なことになる前に、事前に防げただろうが!」
相変わらず机をバンバン叩きながらまくしたてる。隣の安藤は、立ちすくんでいた。
「大変申し訳ありません」
毎日暇な支店長殿がてっきり確認されてウハウハされていることと思い、自分はしませんでした。続きは心の中で答える。
「本当に申し訳もできないだろうな。500万がパアになるんだぞ。どれだけの損失を生むことになると思ってるんだ!」
「しかし支店長、まだキャンセルが決まったわけではありません」
おれは何とか反論する。全ての責任をおれになすりつけられるわけにはいかない。
「まだ決まってないだぁ?お前はキャンセル撤回できる自信があるんだな!?というかできるんだな!?そうだな!?」
伊澤支店長が、細い面長の顔 に浮かぶギョロリとしたでかい目を、おれの顔にずいと近づけた。ず太くちぢれた眉毛にやけに巨大な口元のほくろ。まるで憎まれ顔を絵に描いたようなパーツをそろえている。
「とにかくこれから、安藤と先方を訪ねて直接お話をうかがってみたいと思います。もう少々お待ち下さい」
「ああ、そうしてくれ。ただキャンセルになった場合、ただでは済むと思うなよ」
「分かりました」
おれは伊澤支店長と目を合わせるのも面倒になり、そのままくるりと背を向けて退出した。
「支店長、あんな剣幕で怒るんですか…」
後に続いて出て来た安藤が、すっかり怯えている。伊澤支店長は、安藤を箱入り息子のように大事にしていたのだろう。そういえばさきほどの場でも、当事者である安藤には一言もお咎めをしていない。全くおれは損な役回りだ。
「ま、おれは慣れてるけどな。それより早く先方に行くぞ。書類まとめて」
「は、はい。あの…」
「ん?」
「係長も巻き込んでしまい、すみません」
安藤は申し訳程度に頭を下げる。それを言うタイミングも遅すぎる。この部下といい上司といい…おれは愚痴をこぼしそうになりながらも自席に戻って、冷め切ったコーヒーを口にした。
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