「そうか、やはり私の企画はうまくいったか。良かっただろう」
「ええ、先方の担当者も、このような企画はありがたいと申していました。私も売り上げを一気に伸ばすことができました。今月は落ち込んでいたので、本当に助かりました。ありがとうございます」
我ながらずる賢くなったものだ。30万程度では『一気に』とは言いがたい。おれは支店長室で頭を下げながら、自分の演技に内心苦笑いする。
「ま、君は優秀な面もあるが、まだ若い。何かあったら、相談にのってあげないこともないからな」
チラリと伊澤支店長の顔色をうかがうと、おれが予想した以上にニヤニヤとしている。普段何かと反抗的な部下が、やっと自分に服従したという満足感を味わっているようだ。おれの内心は胸くそ悪いという感情しか沸き起こらないのだが、頭の中では冷静さを保つことができた。
彼の気が緩んでいるなら、次の一手だ。
「それと支店長、昨日の黒岩板金の件ですが…」
「ああ、そうだ。どうなったんだ?」
伊澤支店長は、今更思い出したかのように居直った 。あんな大事故案件を後回しにして話せるのも、彼がその程度の人物だからだろう。
おれは昨日の経過を仔細に報告し、柏木という発注担当者に事情を聞く必要があり、そのためには支店長にも同行して欲しいと、できる限りおだてながら頼み込んだ。
「このような状況なので、お忙しいところ大変お手数なのですが、支店長にもお力添えを頂きながら、先方にうかがって事実確認を進めていきたいと考えております。ご足労頂けないでしょうか?」
さぁ、ここからが勝負だ。どう首を縦に振らせるか…
「500万のためなら仕方ないな。じゃあ、安藤にアポ取らせて。向こうがOKなら、今から出よう」
伊澤支店長は、突然引き出しからネクタイを取り出した。
ん?この人今行くって言ったのか…?
「何をボサッとしてるんだね。早く安藤に伝えなさい」
「あ、ああ、はい」
おれは狐につままれたような気分になりながら、慌てて部屋を出た。こんなにアッサリと彼を動かせるものなんだろうか。未だにこの状況を信じられないまま、おれは事務所の安藤の席へ向かった。
黒岩特殊板金に向かう途中の伊澤支店長は、終始機嫌が良かった。
会社からは、電車とバスを使って30分程度だが、その道中彼は自分の昔話や独自の営業スタイルなどを、おれと安藤に向かって話し続けていた。
「私が入社したころはバブルが崩壊したときでねぇ。今なんかと比べ物にならないくらい大変だったよ。人脈ゼロの状態からこの会社に入ったもんだから、同業者の方が参加するゴルフのコンペに毎回出るようにして、頑張って人脈を作っていたものだよ。いやぁ、嫁さんから白い目で見られてね」
そういえば、おれも入社したての頃はこの伊澤支店長にさんざんゴルフをやれと言われていたが、新入社員の給料でゴルフを始めるには、あまりに金銭的負担が大きかったためスルーしていた。今でも支店長は、仕事そっちのけでゴルフへ行ったりしているのかもしれない。
なかなか笑顔を取り繕うのが大変ではあったが、何とか目的の黒岩特殊板金まで、伊澤支店長の上機嫌を維持したままたどりつくことができた。
「あ、もしかして伊澤さんじゃないですか?」
おれが事務所のドアに手をかけると、ふいに横から声がかかった。見ると、作業着姿の男性が立っている。40台だろうか、小太りな体型で頭にはタオルを巻いており、いかにも現場の職人という雰囲気だ。
「あー、どうも。ご無沙汰しております」
伊澤支店長は、相手の名前を思い出せないようで、ぎこちない笑顔を見せながら近づいた。
チラリと支店長が、相手の胸元の名札に目をやるのが分かり、おれもつられてそっちを見る。
…「柏木」とある。息を飲んだ。目の前にいる彼が、今日のおれたちのターゲットらしい。また不在を理由に追い返されることも想定していたのだが、今回はその心配は早々に消えてくれたようだ。
「柏木さん、いつぞやのコンペでお会いして以来ですね。その後いかがですか?前にご一緒したカントリークラブへは?」
「あー、それがさっぱりですよ。仕事が忙しくてなかなか。でも最近は少し余裕もできてきたところなので、今度よろしければ」
「ええ、ぜひ。ご一緒しましょう」
伊澤支店長は、相手の名前が分かると、どこで会ったかも思い出したらしい。どうやらゴルフで知り合ったようだ。これから責任の擦り付け合いを展開する相手とは思えないほど親しげに話している。
と、そこに事務所の扉が開き、中から黒岩社長が現れた。
「こ、こんにちは!」
安藤がまた勢いよく頭を下げた。黒岩社長は安藤を一瞥すると、柏木氏に言った。
「柏木、何やってる。北大阪パイプさんだぞ」
「え?」
柏木氏は、驚いた様子で伊澤支店長とおれたちを見回した。そんな彼に、おれはずいと近づく。
「初めまして。北大阪パイプの向田と申します。発注担当の柏木様でよろしかったでしょうか ?先日弊社にご注文いただいたパイプの件について2,3確認したいことがございまして、あがりました」
柏木氏は、気まずそうに黒岩社長と目を合わせた。黒岩社長は「中に入れろ」というように顔で促す。
「ではこちらへ」
柏木氏は緊張した面持ちで、おれたちを事務所の中へと案内した。この態度からして、何かがあったことはほぼ間違いない。
前回訪問したときは分からなかったは 、事務所の奥にはパーテーションで区切っただけだが、簡単な応接スペースがあった。5人が入ったら窮屈に感じてしまうほどの狭さだが、ここまで入れてもらえなかった前回と比べれば、懐に一歩入り込んだと言えるだろう。
伊澤支店長が名刺を渡しながら、先方の二人に挨拶すると、黒岩社長はあきれたようにそれを受け取った。
「前は係長さんが来て、今度は支店長さんが自らですか。どうやら、よっぽど事を荒立てたいらしいな」
「申し訳ありません。御社もお忙しいところにお時間を取らせてしまいまして。担当の安藤はまだ入社一年目の若手でして、弊社としてもこれから大事に育てていきたいと思っている者ですので…私からも今回の件についてお話をうかがえますか?」
伊澤支店長は、社内では見せたことがないような温和な表情で話している。さらに、安藤が新人ということをあえて教えることで、相手の理解も得ようとしている。支店長という肩書きがなければできない営業トーク。この辺り、さすがに長年営業の仕事に携わるだけあるようだ。
「すでにご覧になっておられると思いますが、こちらのご注文についてです。柏木さんから発注いただいた件でよろしいですね?」
伊澤支店長が、注文書を柏木氏に見せた。柏木氏はずっと決まりが悪そうに目を背けていたが、支店長に話かけられると仕方なさそうにうなづいた 。
「ご覧の通り、弊社で保管している注文書にはシームレスの表記がございません。しかし、御社で保管されておられる注文書にはシームレス表記がございます。この辺のご事情を何かご存知でしたら、お話頂けないでしょうか?」
ここまで核心を突然つけるのも、さきほどの柏木氏のやり取りがあってのことだろう。
「いやぁ、ちょっと私には…」
「お分かりになりませんかね?発注担当をされる方は、他にはいらっしゃるんですか?」
伊澤支店長は、控えめな姿勢からも次々に攻撃する。黒岩社長はと言うと、何かしらの援護をするんだろうと思っていたが、予想に反してムッツリと黙って柏木氏を見つめている。
「弊社としても、相場と著しく違うことに気付かなかった点は、誠に申し訳ないと思っております。しかし発注頂いている金額が金額なだけに、こういった曖昧な事情のまま返品を受け付けることが難しい状況でして。何とか事情を明らかにさせていただいた上で、誠意を持って対応させて頂きたいと考えているわけなのですが…」
伊澤支店長は、自分たちの立場の弱さや、客先の味方でもあるということを強調しながら、徐々に相手の逃げ場を削っていく。温和な話し方の中にも、計算の上に言葉を発しているのが分かった。おれであれば、こんな話し方ができるだろうか。密かに舌を巻いた。
困ったようにうつむく柏木氏の様子を見れば、彼のミスであることは明らかだった。しかし、おれたちがそれを口に出すわけには…
「か、柏木さんが、後から書き加えたんじゃないですか?」
おれはギョッとして振り向いた。その言葉は、柏木氏をまっすぐ見据えた安藤が発していた。
柏木氏は、まさかというように安藤を見つめる。客先に向ける言葉としては、ありえない無礼と言えるだろう。
「おい、あんど…」
安藤を遮ろうとするおれを、伊澤支店長が遮った。伊澤支店長は、そのまま安藤に任せろと言うように、おれを目で制止している。
「そうとしか考えられないじゃないですか!こんな殴り書きしたようにシームレス表記があるなんておかしいですよ!それで責任を全部こちらに取らせようとするなんて、ひどいです!」
安藤は思いのたけを叫んだのだろう。しばらく息荒いまま柏木氏を見つめている。
何だ、この修羅場は?おれは経験したことがない緊迫感に、内心笑うしかできないでいる。しかし心のどこかで安藤に、よく言ったと拍手を送っている自分もいた。
「もうその辺にしておけ」
ようやく黒岩社長が、重そうな口を開いた。
「この柏木はね、実はうちの娘の旦那でね。ゆくゆくはこの会社の跡取りとして 雇ったんだが、なかなかどうにも成長しなくてな。この件も実はおたくらの言う通り、こいつの発注ミスとしか思えないんだが、500万て大金だ。何とかフォローしてやろうと思って、昨日は追い返しちまったんだが…でも、こいつには責任を認めさせなきゃ、本当の意味での成長はしないようだな」
おれは、黒岩社長をただ見つめていた。黒岩社長が事実を認めようとは、予想だにしていなかった展開だ。
「おい、そろそろ認めたらどうだ?」
黒岩社長が柏木氏の肩をポンと叩く。柏木氏は、かすかに肩を震わせながら下を向いていた。
「し、しかし、それでは会社の財務状況が…500万なんて…」
「仕入れたパイプをゴミにしない方法は考えればあるさ。今の問題は、お前の未来があるかどうかだ。ここでミスをうやむやにしたら、お前はまた同じミスを繰り返す。結果、成長しないまま時間だけが過ぎることになる。痛い目に遭ってでも、お前の欠点は直していかなきゃいけないんだよ」
「…すみません、お義父さん」
「謝る相手が違う」
柏木氏は、おれたちの方をまっすぐ向いた。目にはうっすら涙が溜まっている。三人の顔を順に見つめ、最後に安藤に向き、静かに頭を下げた。
「すみませんでした…」
そんな柏木氏を見て、安藤が突然立ち上がった。
「こ、こちらこそ、発注の段階で気付かず、御社にご迷惑をかけることになってしまい、大変申し訳ありませんでした!」
勢いよく頭を下げる彼の姿は、今までのように黒岩社長を恐れての礼ではないことが分かる。責任の一端が自分にもあり、そのせいで一つの会社を傾けようとしている。それを実感した安藤の、誠意ある謝罪だった。
「…お互いの若手が、今階段を一つ上がったようですね」
伊澤支店長が、微笑ましく黒岩社長をうかがう。社長も、わずかに微笑んだようだった。
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